へるすけあこらむヘルスケアコラム
【日本人の健康状態】公衆衛生の基礎としての疫学 ~自家製漬物が売り場から消える?~
2024.07.15はじめに
新型コロナが世界的に流行していた時のこと、マスコミは県ごと、市町村ごとの感染者数を連日報道していました。医療機関は、新型コロナに限らず感染症法で類別されている感染症について保健所へ報告する義務があります。保健所は地方自治体が設置しているので、厚生労働省が自治体ごとの集計データを集約して公表し、マスコミはこれを報道していたのです。また、2024年の4月には、特定健診(40~74歳の方を対象とした生活習慣病予防のための健康診断)における高血圧の基準値が、以前の140/90 mmHgから160/100 mmHgへと変更されました。こうした病気に関するデータから、その病気の要因の分布を明らかにして健康増進や疾病予防に役立てる学問が「疫学」であり、公衆衛生学の基礎でもあります。今回はこの公衆衛生学とはいかなる学問なのかを紹介します。
公衆衛生学と健康
公衆衛生は、人々(公衆)の生命を守る(衛生)ことを意味していますが、英語のpublic healthを直訳した「みんなの健康」の方が分かりやすいでしょう。公衆衛生の対象は「みんな」ですが、個人の健康に相対するわけではありません。私たちは家族や友人、学校や職場といった地域社会の一員であり、個人を救い守るためには、社会のしくみを理解し、この仕組みを良くしていくことで「みんなの健康」対策を進めているのです。1920年に刊行されたサイエンス誌にWinslowが提唱した公衆衛生の定義には、「組織化された集団の努力によって、疾病の予防、寿命の延伸、健康づくり、諸活動の能率を高めるためのもの」と記されています。
公衆衛生の主題である「健康」とは、どのような状態を指すのでしょうか。日本国憲法第25条には「すべての国民は、健康で文化的な最低限度の生活を営む権利を有する」とありますが、「健康」の定義はされていません。世界保健機関(以下、WHO)はWHO憲章の中で、「健康とは、完全な肉体的、精神的及び社会的福祉の状態であり、単に疾病又は病弱の存在しないことではない(昭和26年官報掲載訳)」としていますが、これについてはさまざまな意見や改案が出されています。こうした中、2011年にHuberらは、「健康とは、社会、身体、感情の面で困難にぶつかったとき、それに適応して自身でコントロールできる能力」としてはどうかと、British Medical Journalで提言しました。いずれにせよ、ケガや病気がないからといって、必ずしも健康とは言えないのです。
疫学と健康
健康は前述のように定義が明確でないこともあり、健康であることを直接評価することができません。そのため、健康であることを証明するには、健康でない可能性を全て否定しなければならず、現実的に不可能です。一方で、けがや病気などの健康ではない状態になると、熱が出たり痛みを感じたりします。自覚症状や徴候が見られなくても、身体を動かす酵素、ホルモンといった生体成分レベルで変化が見られる場合もあります。身体の変化が「ない」ことを証明することはできませんが、変化が「ある」ことは容易に示すことができるので、健康状態を把握するためには健康でない指標(マーカー)を使います。冒頭の高血圧の判断基準や血液検査で示される基準値などがその例です。
私たちが健康でなくなるには原因があります。例えば感染症における病原体の流行などです。感染症の流行が起こった時に、その原因となった病原体の特定や、発生・流行状況の調査、解析から対策を検討する手法に「疫学」があります。疫学の「疫」は疫病の疫で、抗生物質が発見される以前は死因の上位を占めていた感染症の対策を目的とした学問です。疾病構造が変化した現代においては、感染症に限らずさまざまな疾患の原因究明や対策に用いられる手法となっており、「健康でない」状態の把握に活用されています。
予防医学とは
WHOの世界保健統計2023年版では、日本人の平均寿命は84.3歳(男性81.5歳、女性86.9歳)と報じており、日本はどうにか世界一を維持しています。また、健康寿命も日本は世界一です。日本では、高齢化社会が問題となる以前から社会情勢や健康課題を鑑みて、国家主導で健康対策を進めてきました。1978年から開始した国民健康づくり対策がその例で、2024年からは第3次健康日本21(第5次国民健康づくり対策)がスタートします。
疾患の予防、健康維持、健康増進(ヘルスプロモーション)は、病気を治す「治療医学」に対して「予防医学」と呼びます。これまでの予防医学は、健康診断などによる疾患の早期発見・治療や合併症対策(二次予防)に重点が置かれてきましたが、近年では生活習慣・環境の改善、健康教育、事故防止やワクチン接種といった一次予防(健康増進、疾病予防、特殊予防)への関心も高まり、地方自治体を中心に精力的に活動がなされています。予防医学では、これら一次・二次予防の他、罹患後のリハビリテーション、機能回復や社会復帰支援などを三次予防としています。
表:健康管理の分類
おわりに
1989年(平成元年)に19.7兆円だった日本の医療費は、30年後の2019年(令和元年)には44.3兆円と約3倍に、2022年の概算医療費は46兆円と右肩上がりに膨れ上がって国の財政を圧迫しています。国家予算における無駄遣いの見直しが最重要ですが、食品衛生法の改正や労働安全基準の厳格化を進めるなどして、医療費の国家負担を減らそうと躍起になっています。例えば、漬物の生産は2021年から営業許可が必要となったため、直売所などで販売されている手作りの漬物であっても許可を受けなければならなくなり、2024年6月からはさらに厳しい衛生基準が付加されたことで、環境やコストの面から販売を断念する小売り生産者が続出しているとの報道があります。食中毒対策の面から考えれば衛生基準の厳格化はやむないことだと思いますが、一方で地元の野菜を使った農家手作りの漬物が食べられなくなることは、ココロの充足感を満たせなくなることにつながるようにも思います。また、労働安全基準の厳格化により工業分野においても生産力低下が懸念されており、基準の厳格化は表面的に罹患者数を減じることと思いますが、一方で心因的な不健康に結び付くことを筆者は強く懸念しています。政策の結果が明確になるには時間を要すため因果関係を証明するのは困難かと思いますが、バランスの取れた社会政策を切に願っています。
●プロフィール
内藤博敬
静岡県立農林環境専門職大学 生産環境経営学部 教授
日本医療・環境オゾン学会 副会長
日本機能水学会 理事
専門は衛生学、病原微生物学、免疫学、生化学。
ウイルスや細菌の感染予防対策法とその効果について、幅広く研究を行っている。